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父が82歳時に書いた戦争回顧録「孫たちへの証言」

新風書房さんの戦争体験を募集し、選考に通ったものを「孫たちの証言」として一冊の本にするという内容を新聞で知った父が82歳の時に応募した作品があります。

残念ながら掲載には至りませんでした。

お酒がはいるとしばしば、このエピソードを話しましたので、子供の頃から耳にタコができるほど聞かされましたが、当時の子供だった父にはそれだけ衝撃的な出来事だったのだろうと推測します。

執筆当時からパーキンソン症候群を患い体も不自由な中で、広告の裏などに何度も書いては推敲し、原稿用紙に向かっていたのが思い出されます。

それまで文章を書くのを見たことがなかったので、熱心に机に向かう父を新鮮な気持ちで眺めていたのを思い出します。

掲載されなかった時にはたいそう落胆していましたが、デイサービスのスタッフさんや知り合いに読んでもらって感想を聞くのが嬉しかったようです。

最近遺品整理をしている時にその原稿が出てきましたので、父の体験をご紹介できればと思います。

多分学生時代に授業で書いた作文以来の執筆だと思いますので、わかりにくいところもあるかと思いますが、父の書いた文章そのままを掲載いたします。(句読点、改行は足しました)

※父は8人兄弟の7番目です。

「孫たちへの証言」

私は当時、現在の靭(うつぼ)公園の近くに住んでいました。家族は10人(父・母・子供8人男4人・女4)でした。

 私のこの度の戦争の始まりは昭和X年X月X日の長兄が「シベリア」(ソ連領)に出兵することになり、父・母と私(当時5才位)の3人が連隊のある「姫路城」へ見送りに行きました。(実際は親子の別れの式)。

 その後の世の中は少しづつ戦争の空気が流れ始め、夜になると空襲警報が鳴ると家の中の電灯を風呂敷で覆って光が外から見えない様にします。空に飛来してきたアメリカ機から見つからない様にする為です。そういう日の繰り返しでした。

 そしてあの昭和20年3月13日未明(小学3年生で奇しくもその翌日14日に学校から集団疎開で島根県へ出発する日でした)。空は米軍の飛行機、数十機が爆音を轟かせて飛んでいます。

 その時、飛行機の中央の部分が開き大きな塊が落下し始めました(焼夷弾)。一尺ほどの筒状のブリキ缶で中にガソリンを染み込ませた布を先に詰めてあり、60本位が一くくりで落下の途中で着火され、焔となりバラバラになり、風に乗ってゆらゆらと地上に(家の屋根に)カランコロンと音を立て乍ら落下してきました。

 防空壕にいた母はあわてて飛び出してきてあたり一面火の海と化した中、父を中心に逃げ始めました。その時父は私たち全員手を繋ぎ逸(はく)れないことそして順番に名前を大きな声で呼ぶから大きな声で返事を返す事、絶対に手を離すなと命じ、行く宛のない道を歩きました。

 その途中で次女がいないことに気付き兄が慌てて焼けている家へ探すべく大急ぎで引き返しました。

 家に着くと姉が2階で水の入ったバケツで火消しをしていたそうです。その時すでに2階への梯子は焼け落ちていました。大声で叫ぶと2階から飛び降りた姉の手を夢中で握りしめ再度合流できました。

 そのうち堂島川にでてくると川面にチョキ舟(猪木船)が中に残っていた石炭に火がつきユラユラと浮いていました。川べりにあった商社の倉庫にあった米が焼夷弾でいぶされ辺り一面その匂いが漂っていました。

 そのうち電車の踏切に出ました。そこに備えてあった高射砲が撃った弾がアメリカの飛行機に当たり白煙があがったといって大騒ぎでした。

 その日は近所の方のお知り合いの家に一緒に泊めて貰いました。

 翌日母と私と妹2人で母の里の和歌山へ関西船の「湊町」より機関車に乗りトンネルをいくつも通り抜け、始めて田舎の生活を体験しました。

 それから数ヶ月、父より家を見つけたので帰ってくる様に連絡が有りました。大阪駅に着くと以前住んでいた方角は焼け野原で只一つ四ツ橋の「電気科学館」だけがポツンと有りました。

 新しい住居について、転校先の学校に行くと広い校庭一面が芋畑になっていました。この間もずっと戦争状態で家の近くの「風呂屋」さんに1屯爆弾が落ち、家の窓ガラスなどが吹き飛びました。続いて東洋一と言われていた水田操車場を目がけて飛行機の艦砲(かんぽう)射撃です。バリバリと映画にある様にそれは恐ろしい音でした。

 そうこうしているうち昭和20年8月15日の天皇終戦宣言でようやく終わりました。

 世間は終わりましたが、我が家は長兄が還っておりません。毎日朝のラヂオの復員情報を聞き御仏前に陰膳を供え首を長くして母は待っていました。当時の私の胸中に年寄りの母が帰還船の着く鶴橋港の岸壁に立ち背に「岸壁の母」の歌を聞き、はるか北を眺める光景はまさに母の心情だろうと心につきささりました。

 そして私が中学2年生の時シベリヤからの最後の復員船で無事還ってきました(昭和25年)。やっと戦争が終わりました。

 その兄は近年亡くなるまでシベリアでの事は一言も話した事は有りませんでした。

(唯一度丈私に酒の席で軍歌を歌うの丈はやめてくれと言いました)   終り

読んでみて

靱公園は大阪の肥後橋に今もあるバラ園や桜が楽しめる公園です。

父の記憶に正誤は多少あると思います。何せ当時は小学生の低学年ですから、大人たちが口々に話す噂話など聞いたことをそのまま覚えている部分もあると思います。

それでも火の中を家族が連なって、あてもなく逃げる様は想像するだけでも恐ろしい状況です。

どれほど怖かっただろうと思います。

父とは6才年下の母も大阪に住んでいましたが、近鉄百貨店が燃えるのを見たことが戦争中で一番記憶に残っているそうです。防空壕に入ったことなども覚えていました。

戦争は昔の話だという気持ちでいましたが、世界の動きを見ると現在進行形であるということがよくわかります。

「孫たちへの証言」は、発行人の方の体調や戦争を知る世代が少なくなったためか応募作品も減ったため、2020年で終刊となったようです。

バックナンバー等もあるようですので、新風書房さんのサイトをご紹介いたします。